ごはんを食べよう



「ただいまー」
 今日はバイトがない代わりに、バスケ部の部内試合のヘルプ……と称した、えらく好戦的で暴力的な対戦相手と相対した際の特訓に参加していた。バイトの日に比べれば帰宅時間は早く、久しく退勤ラッシュに巻き込まれてくたくたになった足がもつれる。脱ごうとした靴が横向きに投げられた。
バスケ部の試合に参加するのは今回が初めてだったが、部員たちから「全力で来てください!」と言われてしまえば、手を抜くのは流石に失礼だろう。バスケのルールは授業で習った程度で曖昧なままだったが、かなり全力に近い力を出した。おかげで「バスケットボールって砲丸投げじゃないんだよ」とルールを再確認することもでき、夢にとっては収穫の多い一日となった。自チームのファール頻発、部員からマネージャーに至るまで怪我人続出、最後にダンクをした際ゴールが若干曲がったようだが、明日以降はバスケに参加しない夢にはあまり関係のない話だった。
それよりなにより腹が減った。力を出した弊害で、先ほどから腹がぐうぐうと唸り続けている。夢からしてもおなかとせなかがぺったんこになりそうで、普段あまり買い食いをしない夢が帰りに買い食いでもしてやろうかと思うほどだった。買い食いをしなかったのは、今日はバスケ部の試合に参加する、と告げた夢に返ってきた、母の「じゃあ今日は、たくさん夕ご飯用意しなきゃね」という言葉が理由だ。母はなんというか、言葉に忠実というか、良くも悪くも限度がない。昔から両親の愛を惜しみなく注ぎ込まれて育ってきた夢(と努)だが、母の惜しまなさは娘の夢から見ても時折度を越していると思うことがある。それの最たるものが「沢山」で、文字通り山のような物量を用意されたことは一度や二度ではない。ここ数年でようやく限度を覚えてきたのか、父が手綱を握ることに成功したのかは分からないが、夕飯なんかは流石に翌日に持ち越す程度になってきた。比較的よく食べる夢と育ち盛りのはずの努が当日に食べきれない分を用意している時点で十分多いのだが。
ただ、母がたくさん用意してくれるのが嬉しいのも事実だ。母は料理が上手い。友人に振る舞った際にも好評だったり、以前お弁当を探偵事務所に持っていき、好き嫌いの激しいバイト先の雇い主兼上司の探偵・橘現に少し分けた際も「おいしいわね」と言っていたりと、この感覚は身内贔屓というわけでもないのだろう。たくさんおいしい料理を用意してくれるなら、たくさん食べたいと思うのもまた、娘の愛だった。
手を洗い、荷物を持ってリビングへの扉を開ける。そこで迎えたのは、母の優しい声色ではなかった。
「あら、お帰りなさい」
「ハ!?」
そこに飛び込んでくる衝撃の場面。件の探偵、橘現が、なぜか母と台所に横並びで、エプロンをつけおにぎりを握っている。なんだ?! 想像で現を出したせいで現実にも現れたのか?!
母は現の影からぴょこんと顔を出した。油の海に粉をまぶしたであろう肉を投入しながら、おかえりなさいといつもの調子で夢に告げる。
「なんでなんでなんで?!」
「さっき偶然スーパーで会ったのよ~! 栄養ゼリーみたいなのしかカゴに入ってないもんだから、若い男の子がそれじゃ駄目よ! ってお夕飯誘うために連れてきちゃった」
夢の母は頬に手を当て、満面の笑みでそう答える。いや、だからといって二人でおにぎりを握るに至るまでは相当長い道のりが必要だと思うのだが。なんなら現がつけているエプロンは夢が調理実習用に購入したものなのだが。はぁーっと息を吐いて、夢は荷物を置き現に話しかけた。
「現さん、断らなかったんですね……
「露骨に引かないで頂戴。それにしてもお母さま、その……力がお強いのね」
「あ~……
現は気まずそうに、目をそらしながら答える。優しそうな外見に反し、母は結構強引というか、有無を言わせぬ強さがある。その上意外に腕力もある。これを見るに現といえど断り切れず、引っ張られるまま来るほかなかったのだろう。だからと言って夢のバイト先の上司、一応は娘と年の近い男性を、こう簡単に家に呼ぶものだろうか。そんな夢の心の声を読んだのか、母は衣のついた肉を油から引き揚げて語る。
「いつも夢ちゃんがお世話になってるし、なにより命の恩人だから。その上夢ちゃんと年が近いとなれば、もうほとんど息子みたいなもんよねぇ。ちゃんと食べて、元気に過ごしてほしいわぁ」
「ハァ……
助手の母からの息子扱いに、流石の現も手を止めて困惑する。遠回しに「栄養ゼリーで食事を済ますな」と言われているのもあり、明らかに返事に迷っていた。命の恩人がゲスト扱いされず、調理に参加させられているのは、夢から見ても愉快だった。夢は笑いながら現に問いかける。
「して、なんでおにぎり握ることになったんです?」
「ほんとに、なんでかしらね……
「だって、今日はおにぎり握るのよ、って言ったらおにぎり握ったことないっていうんだもの!」
「確かに謎の流れだ」
現は明らかに不服そうだが、不思議と強さを持つ母の言葉に逆らうのが難しいことは娘の夢が一番理解しているのだ。夢は思わずふふっと声を漏らして笑った。夢は台所の現を指差す。
「あとそれ、私のエプロンなんですけど」
一瞬目を見開いたかと思うと、現は夢を一瞥してふんっと鼻を鳴らした。なんとも腹の立つ顔だ。
「フフ、通りでセンスの欠片も無いわけだわ」
「あんだとコラ」
調理実習以外で使ってないんだからいいじゃない、と母に窘められ、複雑な面持ちで台所へ侵入する。母よ、娘のプライドが傷つけられたのはそこではないのだ。
手伝えることはないかと二人の間から調理台を覗くと、大きな丸皿にこぢんまりとした、俵型のおにぎりがいくつか並べられていた。米はぎちぎちに詰まり、海苔と白米のバランスが悪い。
「これ、現さんが握ったんですか?」
「ええ、まあ」
「ふ~ん……へえ~っ」
「ナニよ」
「私、結構米握るの上手いですよ。お手本見せてあげます」
そう言って夢は、現の左側に置かれた水の入ったボウルに、ざぶざぶと氷を投入する。現は何も言わずじいっと氷が投入されるさまを見つめた。炊飯器に残っていた山盛りのご飯を、釜ごと取り出してボウルの隣に置く。
「ご飯は熱々のうちに握らないと、空気が入らないんですよ。現さんのことだから、適度に冷ましてから握ってたでしょ」
「熱すぎて握れたもんじゃないんだもの」
「まあ、慣れないうちはそうですよね」
夢はボウルに手を入れる。かろんかろんと、氷同士がぶつかり合って涼やかな音を奏でた。しばらくつけて、夢は「今だっ」と釜に手を突っ込み、ご飯を掬う。手のひらは米からの熱を受けて、赤く赤く染まっていく。
「こうやってリズムよく、形を整えていくんです。ぎゅうぎゅうに握っちゃダメですよ」
そうして彼女の手の中で、粒たちは徐々にまとまっていく。膨らんだ母指球筋に右手が当たり、とん、とん、と調子よくリズムが刻まれる。手首のスナップと相まって、楽器を奏でているようだった。現は手のひらから流れるリズムを淡々と目で追っていく。
「そして最後にお塩をチョンと。それでまた軽く一周して」
ほっほっほ、と声を出しながら手の中の柔らかな白を転がす。整った、角の柔らかな三角形に、海苔をぺろんと取り出して下側から巻き付けると、お手本のようなおにぎりが夢の手の中に現れた。夢は思わず鼻を鳴らした。
「んー! 我ながら美しい出来」
……ホントね。綺麗な三角だわ」
珍しく、現も感嘆を漏らした。それに気を良くして、夢は続ける。
「まあ? 当然ですし? 桜家のおにぎり専門家と言えば私ですからね」
自信満々の笑みで現にそう告げる。唐揚げを揚げきった母が夢の握ったおにぎりを見て、口元に手を当てて涙をこらえるように眉を下げた。
「夢ちゃん、ちょっと前まであんなに下手だったのに……。こんなに上手におにぎり握れるようになるだなんて、お母さんびっくりだわ」
「ちょっとお母さん!」
……練習って、実になるものねぇ」
「ただいまー」
親と娘と息子(部外者)で騒がしくしていたところに、息子(本物)が帰ってくる。どうせ本屋にでも寄っていて遅くなったのだろうと見立てを立てておかえりと声掛けをしようとしたが、目の前の現の存在を思い出し、どう説明したものかと溜息をついた。
「えっ!? なんでいるんですか!? 姉がいつもご迷惑を」
「おいコラ努」
いつもとは少し変わった、賑やかな夕食が始まる。